(「人権と報道」連絡会ニュース 20181115日(第333号)より転載
折山敏夫さんの再審を支援する会の発足の際に、小竹広子弁護士が報告した内容です。

◆遺棄場所は「秘密の暴露」? 
折山さんは5年前の事件を追及されて
85年7月、逮捕されました。警察は、当時、不動産仲介業を営んでいた折山さんがS氏を殺して豪邸を知人に売り払い、口座から頭金を引き出すなどしてS氏の事業を秉っ収ろうとしたとの疑いをかけました。マスコミは、S氏が田園調布に豪邸を所有していたという点にスポットライトを当て、「田園調布の資産家失踪/豪邸を勝手に転売/殺害の疑いでも追及」、「不明5年、家や店転売/預金も500万円引き出す」などと大報逆しました。しかしS氏は、噪うつ病で、よく突然いなくなり、放蕩しては突然現れることを繰り返し、一家は離散状態。豪邸の税金を滞納して税務署からは仮差押を受けるなどして、事業経営は破綻しそうになり、共同経営を約束していた折山さんはその対策に追われていました。

 

 
裁判では、折山さんがS氏の印鑑証明を取り、S氏の実印を使っていろいろと書面を勝于に作成したと認定。博多のホテルでS氏を鈍器で殴って殺し、太宰府近くの山中で遺体を棄てたとされました。しかし、直接の証拠はありません。折山さんと犯行を結びつけるものとして、次の3点が挙げられています。

 

 
まず、折山さんが遺体を棄てたと供述した場所から身元不明遺体が発見され、その遺体がS氏だったということ。これが真犯人しか知りえない「秘密の暴露」に当たるという点です。2点目は、折山さんがS氏の失踪直後から実印と印鑑登録証を持っていたとされていることです。3つ目は、収調べで折山さんが白白したと述べた検事の佐々木善三の法廷供述です。しかし、遺体は、逮捕の5年前に発見されていたもので、警察は遺体の存在を知っていました。折山さんの供述経過からも「秘密の築露」ではありません。2点目は、折山さんの自白に基づいています。けれども、白白は嘘をでっち上げられたものです。3つ目もまったくの佐々木検事による虚偽供述です。

 


◆死亡覆す多数の証拠

 

折山さんと我々弁護団は、S氏は犯行日の後も生きていたと主張しています。犯行日は80年7月24日、または25日とされていますが、折山さんには豪邸を売った81年2月ごろまでS氏と会っていたという記憶があります。 犯行日後も生きていたことを示す新証拠に、封筒に記された手書きのメモがあります。この封筒には、ある取引を巡って、S氏が80年7月30日にY氏に1千万円を貸し出した事実を示す「7/30 貸し」とのメモがS氏の手書き文字で書き込まれています。 また、S氏が使っていた旧記帳に、自分の名前や住所、年齢などを記入する「おぼえ」という欄があり、年齢欄の「56」を「57」に書き直していることか分かります。S氏は23(大正12)年8月12日生まれで。57歳になるのは、80年の8月12日です。S氏は殺害された後、誕生日を迎えて年齢を書き直したということになります。 さらに折山さんの当時の妻が弁誕士と電話で会話した内容の録音テープが今、我々の手元に残っています。

 

 
テープには「紅葉が湖にうつるのがすばらしいとかいう、電話をもらってるのも、前の年だとしたら、私は、まだ会ったことないんですよね」と録音されています。「紅葉が湖にうつるのがすばらしい」と、妻が受けた電話で、S氏が語った言葉です。妻がS氏と初めて会ったのは、79年の年末か
80年の初めごろでした。79年の秋にはまだ会っていません。紅葉があるのは秋です。そうすると、S氏からの電話を受けたのは、80年の秋以降ということになります。殺害したとされる7月2425日では、まだ秋を迎えていません。

 


ほかにもS氏が生きていたことを示す証拠は多数あります。

 

◆アリバイ逆手に供述誘導

 

太宰府近くの山中で発見された自骨化遺体がS氏のものだとする最大の証拠は、歯科レントゲンの写真です。 S氏は生前、I歯科医の治療を受けていました。I医師は、レントゲン写真を警察に任意提出しています。一方、遺体の頭蓋骨からもレントゲン写真が撮られています。 讐察は、失踪したS氏は殺されたんじやないかとの疑いを抱き、80年1月25日には既にI医師からカルテやレントゲン写真のフィルムの提供を受けています。これらはコピーして3月にいったん現物をI医師に返しています。折山さんが逮捕された直後の7月20日、警察は再び、フィルムを提供してくれと、I医師を訪れています。そのとき、左右を間違えないように赤いマジックで、右、左と記入したと、I医師は法廷で証言しています。折山さんは取調べの当初、東京でS氏を殺したと追及を受けました。折山さんは否認していたのですが、妻は折山さんが犯行日とされた当時、S氏と一緒に博多に行っていたことを思い出しました。

 


そこで折山さんは、福岡での足取りを調べるよう取調官に頼みます。 しかし、それを逆手に取った取調官は、福岡の山の中にS氏を埋めたと言えば。捜査に行かざるを得なくなると、折山さんを責め立てました。折山さんはアリバイを調べてもらうには、嘘の供述調書を作るしかないと思い始めます。そして、福岡の山の中でけんかになり、S氏が小川で転んだので置き去りにしたとか、呼ばれてホテルの部屋に入ってみたらS氏が死んでいた、だから山中に運んで棄てたといったような、いろいろな内容の供述調書が作られていきます。取調官からは、置き去りにした小川はどこかと、地図上で指し示すよう要求されます。検事調べでも検察官から、より詳細な太宰府地域の地図を示され、折山さんが3ヶ所に○をつけた地図が残っています。相当、警察、検察による誘導があったと思われます。

◆すり替えられた証拠写真

 

一方で警察は折山さん逮捕後の8月27。白骨化遺体の歯並びを見た福岡のK歯科医にS氏のレントゲン写真を見せ、遺体と一致するとの調書を作成しています。同じ27日には、東京の1医師を再度、S氏のレントゲン写真を持って訪れます。 当初、遺体と一致しないと言っていたI医師は、写真の左右が逆ではないかと警察から言われ、反転させれば一致すると、徐々に誘導されていきます。

 

 
折山さんは取調官から、お前が話した場所から遺体が見つかった、レントゲン写真が一致したと言われます。S氏は5年前の7月に死んで、遺体がその年の8月に白骨状態で発見されたのだから、それ以降に印鑑証明書が出ているのは、お前が取得した以外に考えられないと追及されます。

 

 こうして、S氏の実印を預かっていた。それを使って印鑑証明書を取得して取引を行ったのだから、おまえが殺したのだとの虚偽の「自白」ストーリーが作られていったのです。レントゲン写真を巡っては、すり替えられたのではとの疑惑があります。

 


I医師は、一審の
86年2月18日の法廷で、自分か赤のマジックでフィルムに右、左と書いたと証言しました。7月20日に任意提出したときに、左右を間違えないように書いたと、裁判所の調書に残っています。 ところが上告審段階になって、当時も弁護人であった再審請求の弁護団の湯川二朗弁護士が、裁判所に保管されていた証拠のレントゲンフィルムを見に行って写真を撮ったのですが、赤で右左とは書かれていませんでした。黒い字でLとRの文字が書がれていたのです。 警察は最初に任意提出を受けた際、フィルムをコピーしています。85年8月27日には福岡でK医師に、そして東京でもI医師に見せています。

 


レントゲン写莫には複数のコピーが存在しています。その一部を作り変えたり、改ざんしたりした可能性は十分にあります。 公判中、検察官は裁判所に提出した証拠であっても借り出すことができます。そのときにもすり替えるチャンスはあったんじゃないかと思います。

 


◆検察官証言で自白認定

 

この事件では、ものすごくおかしなことがもう一つあります。 判決では、博多の中洲のホテルで殺し、近くの雑貨屋さんでダンボールを買って、死体をダンボールの巾に入れてレンタカーで運び、太宰府の杉林の中に棄てた、との白白があったと認定されました。しかし、折山さんは、そんな自白調書は取られていません。佐々木善三検事が自分の前で折山さんが涙を流してそう言ったと供述しただけです。

 


それを裁判所は、折山さんがそう白白したと認定したのです。 被告人が私の前で自白したと検察官が言えば、それで白白したことになる。こんなことを許したら大変なことになります。 ほかにも多くの問題かあります。折山さんは代用監獄に136日間も拘束されました。弁護士との接見時間は
20分だけ。取調べでは、怒鳴る、机を蹴るなどの暴行を日常茶飯事のように受けました。 

折山さんは無実です。ご支援をお願いします。